ファッキン躁鬱

双極性障害者の明るく楽しいハッピーライフ!

スポーツジムへの入会が決定した。

無感動だ。日中、何も考えないで身体を動かす。

その指示をちくいち受けるためにお金を払うんだ。

自分で思考・決定できないからさ。

 

やっぱり夕暮れ後が鬼門だ。

改善したのか、薬が増えたおかげか、全精力でもってネガティブな思考を阻止するような状態ではなくなっている。

 

でもしんどいや。

ベッドに横になるのだけは避けている。

テーブルにつっぷしたり、壁に額を押し付けたりしている。

夕飯食わずにもう寝たい。

とりあえず身体を温めればよくなる気がして、風呂にばかり入っている。

 

気分を安定させる薬は、一日分を夕飯後に摂取する。

だからこの時間が一番ヤク切れなんだと思う。

やたらタバコ吸いたくなる。

 

もそもそ夕飯を食うと、次は寝ることが使命感として重くのしかかるから嫌になる。

バカとしか言えない。

「おいしい」と言って食べるけど、あまり感動がない。

お腹減ってるし、おいしいんだけどね。

栄養を摂取しなきゃいけない、という使命感もあるんだと思う。

ジャンクフード欲もすっかりなくなったし、良くなりたくて野菜を食べている。

そして食に対する礼儀作法として「おいしい」と言っている。

「いただきます」と変わらない。

 

飼っているウサギの動きをじっと見ている。

尿をしたら見に行く。ウンコの個数を数えたりもしている。

以前は私もいろいろやりたいことがあったから、構ってほしいとアピールされてもいなすことが多かったと思う。

でも、今は私のほうからウサギに構ってほしがっている。

ウサギはクールに無視する。または「ウザい」と露骨に態度で示される。

「かまってよし」とお許しが出ると、何時間でも撫でている。

縁側の老人状態だ。

 

ウサギも通院している。

ずいぶん前から乳首が腫れていて気になっていた。

小動物をちゃんと診てくれる獣医は少ない。

いままでの動物病院ではてきとうにあしらわれていた。

獣医は人間より動物が好きという冷たい人間が多いと思う。

評判を聞いて行ってみたところは人当たりのいい女医さんだった。

 

そこで抗生物質の入ったシロップをもらって、朝と夜に飲ませる。

自発的に飲んではくれないから、抱え込んで口にスポイトで注ぐ。

この日課のせいで少し嫌われているんだと思う。

不味いわけじゃないみたいなんだけど。

ウサギもよくなっている。私もよくなるだろう。

電話した。泣くことなどなかった。

 

親族に明らかにUTSU履修済みと思われる医療従事者がいる。

精神病のプロだ。相談するのにうってつけの人物。

その人も私に頼られるとうれしいだろう。

 

まあ、その、なんだ。

数年前、そのひとは私の知らないところでうちの家族とバチバチに揉めた。

腹に一物なく会話できるのが、うちの中には私しかいないという始末。

正月に祖父母宅で顔を合わせたときも、みなの前では上面の会話しかしなかった。

私には目配せをしてきたので、何気なく台所に移動して二人で近況を報告しあったりした。

スパイ映画かよ。

 

たぶん、私だけがそのひとを排斥する気になれないのは、気持ちがわかってしまう部分もあると思う。

そのときは当事者として家にいなかったし。

なにより、子供時代に兄弟ともどもかわいがってもらった。

それは長子である私が一番覚えている。

あのひとを嫌えない。

 

で、電話の結果だけど、彼女はSO_UTSUではなかった。

ただのUTSUだという。親族にも、それらしき人物はいない、と。

むしろ遺伝という部分に異議を唱えて諭してきた。

 

「とにかく、自分で判断しないこと。規則正しい生活を送ること」

私の考えと合致している。問題ない。

 

処方されている薬名をすべて述べよという。

慣れないカタカナ名前をどもりながら読み上げた。

「その処方が心療内科ならまずい。精神科に転院しなさい」

 

心療内科の看板は内科医でも掲げられるらしい。

厚生労働省認可の精神病医師の資格?などと説明されたんだけど、あのひとの話はうちの母に似て説明が不合理でよく分からなかった。

 

とにかく、自分のかかっている医師の資格を調べよ、と。

資格なくば転院せよ、と。

 

「えー。わたし、あのデブメガネの医者を気に入ってるんだけどな」

ああいうタイプがいつ心を開いてくれるのか、デレてくれるのか、そういうのを楽しむ趣味が私にはある。

直観として、あの医師は信頼できる気がしていた。

そういう人を見る目には自信があるんだけど、認知が歪んでいるから押し通す気にはならない。

 

するとすかさず母がスマホ画面をかざしてきた。

デブメガネの経歴だ。保持資格の欄を読み上げる。

「うん、そこの病院でよし!」

お墨付きをいただいた。すげーなデブメガネ。

 

病院選びは母がしてくれた。

一番ひどいときの私には無理だった。

とにかく、以前かかって睡眠薬しかくれなかったワハハおっさん医師以外、という条件のみつけた。

偶然近所にそういう病院があってラッキーだった。

母もいちおう医療従事者だから、その辺もちゃんと考えていたのかもしれない。

 

淡々としたひとって好きだ。

こちら側に興味がないか、自分に自信があるか。両方か。

デブメガネが能面のように表情を動かさないのは、動かす必要がないからだ。

彼には知識があり経験があり、それで患者を治せるという自信がある。

 

私には自信がない。

時間という流れに無作為に流されている。

ちゃんと息継ぎができるように、流れに杭を打ち込んでいくような作業。

きれいに等間隔に並べて、流されても杭につかまって持ち直せるようになりたい。

 

もう少し早く起きたほうがいいらしいんだけど、12時ー9時が今のところ精一杯。

ベッドには12時までに入る。

その後すぐ寝付けないから薬を変えてもらった、と昨日言った。

しかしなんと「寝付けず苦しむ悪夢」をずっと見ていたので薬が効いたのか分からない。

気づいたら朝だったから、眠ってはいたらしい。

布団の感触まで生々しい夢だった。

いや、布団の中にいて布団の中にいる夢を見てたんだから当然か。

 

夢を見ることが増えた。

ぜんぶ悪夢だ。気になっている友人たちが立ち代わり入れ替わり登場している。

謝りたいし、会いたい。

もう少し相手に気まずい思いをさせなくてすむようになってから外に出ていく。

 

以前通りに振る舞えるか自信がないんだ。

三回目の通院だった。

やっとまともに会話ができるようになったから、改めて確認してきた。

「わたしの診断はSO_UTSUでほぼ間違いないのですか」

「はい」

 

UTSUに効く薬とSO_UTSUに効く薬はまったく違う。

後者がばつぐんに効果を発揮してしまったのだから、そういうことだ。

 

SO_UTSU患者がUTSU症状のみを医師に訴えて誤診されるケースがしばしば存在するというが、私に関してはまったくなかった。

即座にSO_UTSUと断定してくれた、あのデブメガネに私は感謝している。

人あたりはともかく見立てはいい医師だと思う。

 

UTSUは心の疾患だが、SO_UTSUは脳の疾患らしい。

これは私も今日初めて知った。

別物だとは聞いていたが、根本的に原理が違う。

脳の伝達が狂っていて心身に支障をきたすのがSO_UTSUだという。

 

どおりでカウンセリングがないと思った。

医師は私の職業や学歴すら聞かない。家族構成も、成育環境も。

SO_UTSUの場合、それらの話は薬物療法が行き詰ったときにとられる第二の措置だという。

 

徐々に生活習慣を矯正し、薬の量を減らしていく。

治療を続けていけば月に一度ていどの通院で日常生活を送れるようになるだろう。

そうすれば周囲とのトラブルが起きにくくなる。

 

卵が先か、鶏が先か。悲しきかな。

UTSUはトラブルが原因でなり得るが、SO_UTSUは自らトラブルを引き起こしている場合がままあるってことだ。

 

最初の診察の日、私は医師にこう聞いた。

「よくなれば、母との関係もよくなりますか」

「なりますよ」

医師の言葉は慰めでもなんでもなかった。

実際、投薬を始めてからはすべてが円満だ。子供のときみたいに。

 

症状が安定しても、治療を継続しなければ9割以上が再発するという。

一生付き合っていくものなのだ。

 

「原因としては、なにが考えられますか」

これにはデブ医師も言葉を濁した。まだ解明されていないらしい。

だが主に、遺伝やストレスが考えられるという。

 

血縁者にひとり、心当たりがある。

今夜、そのひとに電話して聞いてみる。

もし予想通りだったら、たぶん私は電話口で泣くだろう。

 

日が暮れてきたから、少し感情が乱れている。

朝ほど気分がよく、夕方に近づくにつれ憂鬱だと述べたら、今夜のぶんから薬を増やしてくれた。

きっと明日からは日が沈んでも大丈夫だと思う。

 

睡眠薬も増えた。

私の感覚では「眠れている」と感じているが、医師の計画からすると不十分だという。

ベッドに入って30分以内で寝付くことが目安だという。

薬飲んでも2時間くらいベッドでゴロゴロしてたりするわけで、どれだけ寝るの下手なんだよ、と自分にイライラする。

こっちは日が沈んでからずっと寝ることだけを考えてプレッシャーすら感じてるというのに。

基本的に薬を増やして安心するタイプではない。

病院は嫌いだ。薬も嫌いだ。

伊達に何年も睡眠障害ほっといちゃいない。

クソッタレ。

 

まだ細かいことは考えないようにしよう。

淡々と事実のみを受け入れよう。

眠れなくなったらダメだ。

考えないようにしている。

治療第一週目は、考えようとしても頭が回らなかった。

いきなり肩も軽くなって、開放された安堵に満たされていた気がする。

 

二週目、いささか頭が回るようになったばかりに苦しんでいる。

過去の清算、未来への不安、自責。

ふと気づくと、ネガティブな考えに頭を締め付けている。

いまはその段階ではない。いまの中途半端な頭で考えても無意味だ。

 

部屋の何か所かに標語を貼った。「考えない」。

それくらい、無意識に考えに耽っている。

寝る前、ベッドに入ってからが一番不味い。

考えに頭が冴えて、眠れなくなっては駄目だ。

 

これまで私は本当の意味での暇・退屈を知らなかった気がする。

「この映画は退屈だ」なんて言い回しがあるけど、それは比喩である。

退屈とは、欲求がなにもわかない状態だ。

それに不満を抱いている状態だ。

 

「いま暇~ だれか構って」なんて発言をする人間を、不思議に思っていた。

私にはいつでもやりたいことがあった。無限といえるほどに。

次から次へと欲求・意欲がわいて、頭の中がフル回転していた。

私生活や約束事をおろそかにするほどに。

 

「○日、暇?」と聞かれれば、私は「ひま」と答えた。

それは優先すべき予定がないという意味だった。

なにも予定がなければ、私は何かしらの趣味で忙しくしていたことだろう。

 

ありていにいえば、暇だ。

楽しいことがなにもない。強いて言えば、自己観察?

規則正しいとは言えないが、毎日の睡眠は続いている。

それだけが自分に感じられる進歩だ。

 

外出すると、明らかに消耗する。

無理はしない。実は一度鬱転らしきことをしてしまった。

私の場合の鬱転は、眠り続けることなのかもしれない。

 

そして不思議なことに、朝ほど気分がいい。

いままでとは真逆だ。

夜に近づくにつれ、気分が沈んでいくのを自覚する。

 

朝には「起きれた」という些細な達成感があるからかもしれない。

夜は「寝なければならない」という強迫観念が待ち受けている。

それを繰り返して、単調な日々を送っている。

 

やはりテレビは好きじゃない。

CMが入ってイライラするし、構成やその番組の裏でどういった意図が働いているのか、などと想像してしまう。

日本のテレビ番組の大半はエンターテイメントでもメディアでもない。

経済だ。そういうことは考えたくないんだ。

 

朝食後にタバコとコーヒー。

寒いと感じるなら、音楽を聴きながらストレッチをする。

昼寝するペットをひざに置きながら、英語のメディアを視聴する。

そうすると昼過ぎになる。

そこからの過ごし方について、現状の最適解が見いだせないでいる。

 

瞑想について一時期調べていたことを思い出す。

オカルティックな話に聞こえるかもしれないが、中身は単純だ。

「未来も過去もここには存在しない。今だけがある」

「今」に心をとどめようとすること。それが瞑想だ。

いまの私に必要なのは、そういうことなんだろう。

スポーツクラブの見学をした。

電話して、時間通りにいった。

 

続く気がしない。そのくせ値が張る。

けどほかにいい案も浮かばない。

 

歩けばええやん、と弟に言われたけれど、天気や気温や帰ることを考えたりするのがめんどくさい。

最適な目的地もわからない。

古本漁るのも、古着漁るもの好きだったんだけどな。

食指が動かない。

 

ところで弟の方は一件落着したらしい。

確実に自分も影響を受けていただけに、喜ばしく思う。

家から通うという。つまり、私がキレていた同居は解消されない。

もうそれでもいいと思う。ぜんぶどうでもいい。

イライラしなくなった。悲しくもない。

 

楽しみといえば、自分の経過を観察することくらいか。

 

体重がヤバイ

治療を始めて一ヵ月も経っていないのに2キロも増えた。

薬でむくんでいるのだろうか。

タイトなパンツのシルエットからして変わった。

 

躁状態のときはむやみにカロリーを消費してたらしい。

いまと比べると、たいして空腹も感じていなかったし。

正直にいえば、あの高揚感を手放すのは残念だ。

ずっとアガっているだけの、体力が身につけばいけるんじゃね?とか思ってるんだけど。

 

次回の通院で聞くべきことを整理すべきだ。

スパゲッティに戻ってきている。

頭を回してはいけない。日が沈む。

半身浴するなり散歩に出るなりすればいいのに、ぼんやりし続けている。

動画も音楽もダメ。

他人とたわいもない会話をしたい気分だが、認知がゆがんでいる状態で友達を巻き込みたくない。

 

笑ってほしくて冗談めかして伝えたのに「とにかく規則正しい生活を」とマジレスされてしまった。

やはり笑いごとにはならないか。

私の中では、だいぶ笑えてきたんだけど。

 

伝えたのは共有欲求からだ。うまく表現できないが、言えてよかったと思う。

満足した。つらくなかった。

でも、それを踏まえたうえで私と会話するのは、彼らにとってストレスになりかねない。

 

インターネットソーシャルに出ていくべきでもない。

各種SNSでも沈黙している。多弁なのは閲覧数ゼロのここだけだ。

新しい携帯電話が届いたが、箱を開ける気にすらならない。

 

私と似たような人々の集う掲示板があったが、そこの雰囲気にもなじめそうになかった。

結局は個人の問題だ。参考にならない。

そもそも書き込むだけの文章構成能力がないことだけが分かった。

冗長に、本題とは無関係のことを書き散らすことしかできない。

 

そうこう言っている間に日が暮れていく。

焦ってしまう。今日はまだ、一度も外に出ていない。

日に一度は出たいものだが。寒い。

 

横になるのは我慢している。

だめだ、書いてて気分が重くなってきた。

近所に小鳥でも見に行こうと思っていたのに、どうして感謝祭用チキンの屠殺についての番組なんて見ちまったんだろう。

ウサギみたいなころころしたウンコが出た。

まだ残ってる気がする。さっさと追い出したい。

 

今日もスポーツクラブについて考えている。

市営は安いが年齢層が高いだろう。

世話焼きなおっさんに絡まれる事態が容易に予測できる。

 

アクセスも重要だ。

半端に距離があると、足が遠のく可能性がある。

精神的にもまだ見学に踏み切れない。

 

そもそも、そんなことを始めていいものか。

また何かやらかす気がする。

 

薬を服用する前、状況を変えようといろんなことに手を出した。

ことごとくダメにした。

医師がいうには「そんな状況でやっても、失敗するのは当たり前だろうね」。

 

少しは落ち着いたいまならどうだろう。

もう大丈夫だろうか。

やはり次の診察日を待って、医師の判断をあおぐべきか。

 

治療を始めたばかりの先週は、自力でできることがかなり限られていた。

せいぜいが受動的にテレビや動画を見るくらい。

今週は薬を増やしたせいか、能動的に動くようになっている。

頭が回るようになったから、いろんなことを考えてしまう。

 

「意欲」と「SOU」の判断がつかない。

そもそも「SOU」ってなんだ? 結果論じゃないのか?

うまくいけば意欲的、失敗したらSOUだった、という。

疑問だらけだ。そろそろ医師に聞いてみてもいいと思う。

 

いまは睡眠スパンを整えることに構いっきりで、そういう話は一切していない。

考える必要がないならないで、判断を仰ぎたい。

それくらい自己の判断に自信を喪失している。

 

しかし睡眠は整いつつある。UTSU症状もほとんどない。

ここで文章を書いていることが、なによりの能動性の証明だ。

つい自己分析に走ってしまいがちだが、それは無益だ。

自己認識が危ういことを知っている。「信用できない語り手」。

スリードがある、と思いながら書いている。

 

しかし言語の喪失という状態を自覚した以上、好奇心を抑えられなくなった。

いわば自分自身がチャーリィ・ゴードンになれる。

あとから見返したときに、経過を観察して楽しめるんじゃないかと思う。

言葉を残しておくのはそのためだ。

 

スポーツクラブの話に戻る。

母が新聞折り込みのチラシを見せてきた。

「こんなのがいいんじゃない?」

紙面には「たのしく」「始めやすい」などの顧客を扇動する文字が並ぶ。

 

その誘惑は私には無意味だ。

SOUのときはなににつけても楽しかった。

能動的に楽しいことを見つけてきて、楽しんでいた。

私にとって楽しいこととは、与えられるものではない。

ディズニーランドに忌避感を覚える理由もそこだと思う。

 

いまの私に必要なのはストイックさだ。

肉体的に負荷をかけて、それを乗り越えて爽快感を得る。

話に聞くだけで、体感したことはない。

その快感が才能によるものなのかはわからないが、感じられると素敵だと思う。

 

私は局地的にセンシティブになってしまうから、もっと単純になったほうがいい。

ALL OR NOTHING は控えよう。

まるで真逆のことを言っているようだが、単純になれば日常のこまごましたこともできるようになる気がする。

 

ルーチン、という概念についても考える。

朝の支度など、内容や順序を固定してしまえば余計なことを考えずにすむ。

精神の消耗を節約できる。そういう話らしい。

 

これまでの私は24時間365日という枠からはみ出した状態だった。

一日というリズムを刻むことも、ある意味ルーチンだ。

そのルーチンがまったくないから、私はちくいち考える必要があった。

 

あの感覚については、いまは上手く説明できない。

たぶんそのうち、端的な言い回しを思いつくだろう。

無暗にいま、ながながと言葉をこねくり回す必要はない。

 

とにかく、ルーチンがないというのは混乱なんだ。

私はそれで消耗した。

本能にあらがうのは面白かったけど、やはり不合理だったね。

 

私が持っているルーチンといえば、寝起きにインスタントコーヒーとタバコを摂取することくらいだ。

さんざん非難されてきた嗜好だが、治療を始めて量が減ってきた気がする。

 

午後6時を超えたくらいから、睡眠を意識してカフェインを控えている。

気が高ぶることもなくなったから、タバコも美味く感じるときにしか吸わない。

でも、日中退屈でしかたないから吸っているかも。

本数は変わらないかもしれない。あくまで体感の話。

 

便意が訪れたのでここで失礼する。