家族について
私は独身である。
だから、家族といえば両親と兄弟について述べることになる。
私の家族は、温かく私の病気を見守っていてくれている。
資金的援助はもちろんのことだし、生活習慣が乱れないように気を払ってくれている。
とても恵まれている。
もし、そういった家族の援助が得られなかった場合、間違いなく不幸だろう。
だから私は不幸ではない。
最悪の事態は回避されている。
それなのに、正直に、本当に正直に言うと、家族を信用できないでいる。
思春期という重要な時期を、躁鬱、またはその原因となるストレスに晒されながら過ごしてしまった。
その怨念というか、無理解に苦しんだトラウマが、私の中にはびこっている。
私は「いい子」のふりをしていた。
その無理してた姿を思い描いて、「あなたはいい子だった」と懐かしがられるのには反吐が出る。
他人が、私をどんな人物と見なそうと、その人の自由だ。
だから、家族が私をどんな人物と考えていても、問題はない。
だけど、家族は他人だろうか?
ぐるぐると思考は回る。
「理解されたい」のかもしれない。完全な理解など存在しない。
それを知りながら、望んでしまうから苦しいのかもしれない。
私の場合、いつ躁鬱が発症したのかは定かではない。
睡眠障害は、少なくとも中学生のときには始まっていた。
かつて、私は私自身について「地球とは別の、もっと一日の長い大きな惑星に住んでいる」と表現したことがある。
ずっと宇宙人だったのだ、私は。
宇宙人なのに、地球人のふりをしていた。
ある時期に、私は私と家族の間に一線を引いてしまった。
それは一般的に「自我の確立」と呼ばれる代物だろうが、その確立が歪だった。
家族は重石だ。私を常識に縛り付ける鎖だ。
実家で世話になるということは、同時に監視されているということだ。
それが、嫌でたまらない。
また、どこか遠くへ逃げ出したい。
以前の失踪は簡単だったけれど、病気が発覚した今となっては難しいだろう。
家族は「心配」という大義名分のもと、私にこまめな連絡を要求してくる。
実際、私自身も、監視がなければ何をしでかすか分からない。
矛盾だ。どうやったら、自由に生きれるのか皆目見当がつかない。
一寸先は闇。
毎日毎日、どうやって生きようか、どうすれば退屈に殺されずにすむだろうかと考えながら、時間を浪費している。
あるいはメンタリティーが落ち着けば。今よりもずっと。
そうすれば、こういう思いに気を取られることもなくなるだろうか。
私は不幸ではない。
それなのに、こんなに生きるのが面倒くさい。