後悔
治療前、最後に倒れたときに、やりかけていた仕事がある。
それがずっと気がかりだった。
その仕事はほかの人の手によって完遂されたし、私がいなくても問題はなかった。
一年近く経って、やはり思うのは、私はその仕事をやりたかったのだ、ということ。
その後悔のせいで、元いた世界に戻れないでいる。
直視するのもつらい。
その仕事を与えられたとき、私は嬉しかった。
自分のいままでの努力が認められたのだと思った。
それなのに、躁鬱でダメにしてしまった。
躁鬱だと、病気だと分かっていたら、安請け合いはしなかっただろうし、もっとマシな幕の引き方があったと思う。
本当にやりたいことだっただけに、情けない終わり方をしてしまったのは無念だ。
いつまでも、過去の失敗を気にしていては先に進めない。
でも実際、仕事にとりかかろうとすると、絵を描こうとすると、手が震える。
どんな絵を描きたいか、それすらも何も頭に浮かばない。
まっしろなキャンバスそのままの脳みそだ。
もしかして、私は躁がなければ絵が描けないのでは?
それは最も怖い想像だ。
でも、少しずつだが、以前の感覚が戻ってきているのを感じる。
本を読めたのは、まず一歩だ。
読書にしたって、以前とは読み方が変わった。
集中力がそんなに長くもたないから、少しずつ読み進めるようになった。
ペース配分とでもいうべきだろうか。
そういうことが身についてきた。
以前は絵を描くとき、描き始めたら完成するまで続けないと気が済まなかった。
躁の勢いそのままに描いていた。
そうすると、手は早いが、細部のバランスなんかを微調整してブラッシュアップすることができず、結果、中途半端なクオリティーにしかならなかった。
これは、ずいぶん前から悩んでいたことだが、それも躁鬱の一言で説明がついてしまうのだから空しい。
空しい。空しい。
躁で満たされたい。
アッパーでハッピーな私に戻りたい。
「汝、足ることを知れ」
「こんなぬるま湯の気分で一生を送るくらいなら、一息に死んでしまいたいなあ!」
そんな、鬱とはまた違う希死観念が頭をよぎるんだ。
生きる希望があるとすれば、躁鬱のときとは違う絵が描けるようになることだ。
「治療してよかった」、そう思えるような。
全ての希望を捨てて生きるには、私の残りの人生は長すぎる。
少しでも希望の兆しがないと、息をするのもつらい。
普通の人生、たとえば定職について好きな人と結婚して子供を授かって老いる――というようなのはとっくに諦めている。
孤独でいい。私の躁鬱に振り回されるのは、私ひとりでいい。
だからせめて、絵だけは描かせてほしい。