ファッキン躁鬱

双極性障害者の明るく楽しいハッピーライフ!

ウサギみたいなころころしたウンコが出た。

まだ残ってる気がする。さっさと追い出したい。

 

今日もスポーツクラブについて考えている。

市営は安いが年齢層が高いだろう。

世話焼きなおっさんに絡まれる事態が容易に予測できる。

 

アクセスも重要だ。

半端に距離があると、足が遠のく可能性がある。

精神的にもまだ見学に踏み切れない。

 

そもそも、そんなことを始めていいものか。

また何かやらかす気がする。

 

薬を服用する前、状況を変えようといろんなことに手を出した。

ことごとくダメにした。

医師がいうには「そんな状況でやっても、失敗するのは当たり前だろうね」。

 

少しは落ち着いたいまならどうだろう。

もう大丈夫だろうか。

やはり次の診察日を待って、医師の判断をあおぐべきか。

 

治療を始めたばかりの先週は、自力でできることがかなり限られていた。

せいぜいが受動的にテレビや動画を見るくらい。

今週は薬を増やしたせいか、能動的に動くようになっている。

頭が回るようになったから、いろんなことを考えてしまう。

 

「意欲」と「SOU」の判断がつかない。

そもそも「SOU」ってなんだ? 結果論じゃないのか?

うまくいけば意欲的、失敗したらSOUだった、という。

疑問だらけだ。そろそろ医師に聞いてみてもいいと思う。

 

いまは睡眠スパンを整えることに構いっきりで、そういう話は一切していない。

考える必要がないならないで、判断を仰ぎたい。

それくらい自己の判断に自信を喪失している。

 

しかし睡眠は整いつつある。UTSU症状もほとんどない。

ここで文章を書いていることが、なによりの能動性の証明だ。

つい自己分析に走ってしまいがちだが、それは無益だ。

自己認識が危ういことを知っている。「信用できない語り手」。

スリードがある、と思いながら書いている。

 

しかし言語の喪失という状態を自覚した以上、好奇心を抑えられなくなった。

いわば自分自身がチャーリィ・ゴードンになれる。

あとから見返したときに、経過を観察して楽しめるんじゃないかと思う。

言葉を残しておくのはそのためだ。

 

スポーツクラブの話に戻る。

母が新聞折り込みのチラシを見せてきた。

「こんなのがいいんじゃない?」

紙面には「たのしく」「始めやすい」などの顧客を扇動する文字が並ぶ。

 

その誘惑は私には無意味だ。

SOUのときはなににつけても楽しかった。

能動的に楽しいことを見つけてきて、楽しんでいた。

私にとって楽しいこととは、与えられるものではない。

ディズニーランドに忌避感を覚える理由もそこだと思う。

 

いまの私に必要なのはストイックさだ。

肉体的に負荷をかけて、それを乗り越えて爽快感を得る。

話に聞くだけで、体感したことはない。

その快感が才能によるものなのかはわからないが、感じられると素敵だと思う。

 

私は局地的にセンシティブになってしまうから、もっと単純になったほうがいい。

ALL OR NOTHING は控えよう。

まるで真逆のことを言っているようだが、単純になれば日常のこまごましたこともできるようになる気がする。

 

ルーチン、という概念についても考える。

朝の支度など、内容や順序を固定してしまえば余計なことを考えずにすむ。

精神の消耗を節約できる。そういう話らしい。

 

これまでの私は24時間365日という枠からはみ出した状態だった。

一日というリズムを刻むことも、ある意味ルーチンだ。

そのルーチンがまったくないから、私はちくいち考える必要があった。

 

あの感覚については、いまは上手く説明できない。

たぶんそのうち、端的な言い回しを思いつくだろう。

無暗にいま、ながながと言葉をこねくり回す必要はない。

 

とにかく、ルーチンがないというのは混乱なんだ。

私はそれで消耗した。

本能にあらがうのは面白かったけど、やはり不合理だったね。

 

私が持っているルーチンといえば、寝起きにインスタントコーヒーとタバコを摂取することくらいだ。

さんざん非難されてきた嗜好だが、治療を始めて量が減ってきた気がする。

 

午後6時を超えたくらいから、睡眠を意識してカフェインを控えている。

気が高ぶることもなくなったから、タバコも美味く感じるときにしか吸わない。

でも、日中退屈でしかたないから吸っているかも。

本数は変わらないかもしれない。あくまで体感の話。

 

便意が訪れたのでここで失礼する。